8・2 ダーク・ナイト
エンターティメントの構造は
人間の感覚から
生まれてきたものだから
おもしろそうなら
観に行く
つまらなそうなら
見向きもされない
ただそれだけの
シンプルな構造である
これは残酷ともいえるが
これこそが
人間の感覚である
そんな構造から
生まれた産業だから
結果もまたシンプルである
おもしろかったか
つまらなかったが
そのどっちかだけの
厳しい産業である
ただこの映画を観終わった後は
その感覚には収まりきらなかった
打ちひしがれたような
魂を吸い取られたような
そんな感覚だけが残った・・・・
なんなんだろう
この感覚は・・・・・
映画館を出たのは
真夜中だったので
ダークナイトに出てきた
暗闇の街で考えた
この感覚の泉の元を探すために・・・・・
ヒースが死んだと知ったのは
この映画を観る
はるか前のことだった
だからそのことを知っていて
ヒースを観ているから
そこから派生した感覚なのか
はじめはそう想った
ただもっと掘り下げて考えてみると
これは違うと想った
ヒースの死ということよりも
ヒースの演技自体が
凄かった
ジョーカーという役柄にあった
狂気と妖艶の光を放っていた
話しは少しズレるが大事なことなので
フィンセント・ヴァン・ゴッホの件で説明したい
生前に絵が一枚も売れなかったことや
自らの耳を切った情報があるから
物事の本質を捉えることができない馬鹿な人間は
そんなフィルターでしか
物事を捉えられないから
絵そのものが放っている
純真で太陽の爆発のような
巨大なエレルギーを見落としてしまう
しかしこれは絵だけでは終わらず
長い人生の中では
心の成長を止めてしまう致命傷になる
日頃から自我を引いた
客観的な視野から考える思考を
意図的に訓練したり経験させておかないと
表面だけの薄っぺらい情報だけで
物事を捉える人間に成り下がってしまう
この問題の最も怖い点は
自分でも気づかない内に
心の中に徐々に浸透してくるから
自覚症状が全くない
そして気が付けば
何事も表面上だけしか捉えることのできない
薄っぺらい人間のまま
棺桶に足を突っ込んでいく
話しをヒースに戻すがこの映画は
ヒースの死ということではなく
人間の魂がフィルムに念写されつづけている
映画だった
時に
人の想いは
天をも
突き刺すと思う
ヒースのそんな想いが
途切れることなく
フィルムに焼き付いていた映画だった
芸術家にとって
寿命が長いとか
短いとか
そんな小市民的な価値基準は
全く意味をなさないどころか
彼らが自らの命を賭け
自らの魂を念写した作品と行為を
侮辱し愚弄するだけで
いくら他人の
寿命が長いとか
短いとかと言っても
そう思った人間がが正当化されることはない
だから
芸術家にとって
寿命など関係ない
彼らは
自らの残したものだけで
各自が判断してくれという
厳しい世界で生きることを
人生に選んだ勇者たちなのである
だからフィンセントのように
生前に評価されないなど
時代的なズレはあるが
彼は微塵も
悲しがってなどいないだろう
それどころかその逆で
わっはっはっは
わっはっはっは
わっはっはっはと
腹をかかえながら大笑いし
「俺は
人生を生ききったんだぁ
やりきったんだぁ」
という充実感や満足感で
満ち満ちているだろう
ヒースも同じで
微塵も悔やんだり
後悔などしていないだろう
彼の作品は
永遠に残るのだから・・・・・
その日のナイトは
【暗闇の騎士】のナイトでなく
正に
ヒース・レジャーのための
ナイト【夜】だった
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